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昭和63年第1部門本文_2 - 白山市

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暁烏敏像
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(2)深心

 前章の終わりに掲げたバグワン・シュリ・ラジニーシの言葉は、彼の話し言葉であるが、殆ど詩句のように美.しい。ここには「覚醒」の究極的な在りようが、端的に表現されて余すところがない。しかし、その完壁な美しさは、私たちに具体的な道ゆきを明らかにせず、ただひとり輝いて在ると言わねばならないかもしれない。
  古今東西の聖典はすべて、「ただひとつの大いなる意識」について語っている。インドの伝統では、それは「サッチタナンダけ真実・意識・至福がひとつとなった言葉」の名で呼ばれる。
存在は、ただひとつの大いなる意識と、その意識の戯れとしてのイリュージョン(この宇宙の全ての現象)であるというのである。しかし、そのイリュージョンに自己同化し、いつ始まつたとも知れぬ永劫の過去からの深い業を負って、現に今ここに生きている私たちにとって、その真実への具体的な道筋はあるのだろうか。
  私は、それが三心の第二、深心であると考えるのである。

「二者深心」。「深心Lと言うは、すなわちこれ深信の心なり。また二種あり。一つには決定して深く、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」と信ず。二つには決定して深く、「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を接受して、疑いなく慮りなくかの願力に乗じて定んで往生を得」と信ず・・・・・(注1)

この引文中に説かれてあるのは、いわゆる二種深信の教説である。今、しばらくこれについて、やはり現代的な光をあてて解明していきたい。
  まず「一つには……」と言われている部分、機の深信である。
ところで私はいつもこの信という字に引掛る。信という言葉は、現代の私たちには多くの抵抗感を引き起こす。「信」という字は、ありもしないものを「信じこむ」というニュアンスを帯びてしか入ってこない。ところがここに言われている機の深信とは、「真に自己の何者たるかを自覚する」ことである。

宗教の第一歩は、実にこの自己を知ると云うことである。真に自己の何者たるかを自覚する所に、真の信仰が生れてくるのである。吾々は、ややもすれば、自己に徹底することを忘れて、如来を信じ、往生を願わんとする。此時は、単に平安を得たい、力を得たい、落着場が得たい、という欲だけが先に立ちて、本願の御目的である所の自分の本性は、心の奥に隠れておる。それであるから、いつ迄たっても本願の謂れを知ることは出来ぬ。吾々は初めに、外に向いて如来を求めた心を、内に向けねばならぬ。(注2)

しかし、それならば何故、「知」とは言わずに「信」の字を使うのであろうか。その点について私は次のように考えている。
  通常の意味での「知」は、「私」を固く守りぬいたまま対象を見ることによって成立しうる。しかし、真に自己を知ることは、同じようなやり方によっては不可能である。至誠心の所に於いても考察したように、ありのままの自己を知ることは非常に困難な、恐ろしいことである。自らが基盤とし、恃んでいた自我が粉々になっていくのを予感するからである。従って、真に自己を知るには、私たちは勇気を持って飛びこまなくてはならない。その飛びこみには絶大な信頼が必要である。未知なるものを知る用意が必要である。未知なるものへの勇気と共に獲得される「知」−−これこそが、信ではあるまいか。
  まさしくこの意味で、機の深信と法の深信はひとつであると言わねばならない。自我が粉々になってゆくのを許すには、どうしてもその背後に、自我以上のもの、私を支え生かしめていた根源的なるものへの信頼を必要とする。その信頼が法の深信ではあるまいか。
  このように考える時、二種深信の教説は、至誠心の発動の具体的な在り方を示しているということができる、至誠心とは、ものごとをありのままに見る、分け隔てなくそのままに見る純粋な意識の覚醒のことであった。それが如来の心である。親鸞はその如来の真実心を須いよ、と言う。ところが、今、深い業の中にあり、恐れおののきながら自我に執着して生きている私たちにとって、それは、二種深信という形をとって具体化するほかないのである。
  「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」というような認識は、通常の我々の意識によっては不可能である。この認識はむしろ通常の意識を焼き尽さんとする炎のごときものである。我々はどのように真実に自らを見つめようと努力しても、到底自我によって自我を見つめ尽すことは能わない。はっきりと自我を見つめつくす(機の深信)時には、同時に真実なる働きを一心に信じ、自らを明けわたす(法の深信)がなければならない。
  この二種深信の発動するぎりぎりの地点は、深い業の中にある私たちが、その業の深さの故に、真実なる意識に目覚める不可思議なる一点である。業の中にありながら、業を超えたものと交わるのである。実は、ここに「念仏もうさんとおもいたつこころ」が発しているのである。言い換えるならば、私たちはこの「念仏もうさんとおもいたつこころ」によってのみ(用語へ体系は異っても、同じ「こころ」の内実によってのみ)業を超えたものと交わっているのである。
  このことは後に二河譬の示すものを論じる中で、さらに明らかにしていきたい。

(注1)『真宗聖典』一=五頁〜二一六頁
(注2)『教行信証講義』六一二頁

(3)廻向発願心

「三者廻向発願心」。乃至また廻向発願して生ずる者は、必ず決定して、真実心の中に回向したまえる願を須いて得生の想を作せ。(注1)

ここでもまた親鸞は、通常

必ずすべからく決定して真実心中に廻向し、願じて、得生の想いをなすべし

と読むべき引文を読み換えている。「得生の想い」とは、「浄土に往生を遂げたい」という想いであるが、今、自我の立場からは、それは「死」を意味する。『歎異抄』第九条にも

久遠劫よりいままで流韓せる苦悩の奮里はすてがたく、いまだむまれざる安養の浄土はこひしからずさふらふこと、まことによくよく煩悩の興盛にさふらふにこそ。(注2)

とあるように、自我はどんなに苦しくとも、けっして自らへの執着をやめようとしないものであるといわねばならない。
  私は、自らの瞑想体験の中で、突然「自分が自分の命を握りしめている」ことに気がついたことがあった。瞑想中に一種の臨死状態のようになったので、「死にたくない」という恐怖が圧倒的な勢いで私を襲い、私は自分の命を必死の思いで握りしめたのである。しかし、一方で私はこの「自分の命を握りしめている手」を放してしまえば、どんなに解放され、自由になることか直感していた。この手を放しても私は自由になるだけで肉体は死なないのかもしれない、もしかするとそれが「悟り」なのではないか、とも考えた。だが、私はその手を放すことはできなかった。何がなくてもいい、悟れなくても、往生できなくても、誰ひとり幸せにならなくてもいい。とにかく自分は今、生きていたいんだ、と鬼のようにそう思った。
  瞑想から覚めてから「ああこれが、はじめのない過去から、生まれては死に、死んでは生まれながら、自分が続けてきたことなんだな。」と考えた。こうして生命を握りしめているから何度でも死に、何度でも生まれてくる。その業の深さは、到底一生限りのものではなく、はかりしれない過去から続いているのだと感じた。そして、こうやって命の根っ子のところを恐ろしいほどの我執で握りしめている限り、未来永劫、業は続いていくに違いないと思えた。
  「得生の想い」は、到底、私たちの自我の中に生じるものではない。が、また如来の真実心は、そのままでは、ただ寂静なる無限の覚醒であるばかりであろう。如来の真実心が、業の中にある、苦悩する私たちに廻向されてくる時、そこに「得生の想い」が生ずる。これが「廻向発願心」と呼ばれるものであろう。

(注1)『真宗聖典』 一二八頁
(注2)『歎異抄』金子大栄校訂 四六頁〜四七頁

(4)二河譬の示すもの

 次に善導は、有名な二河譬を掲げている。しかるにA,、その冒頭にこう記されていることに最も注目したのが親鸞であった。

また一切往生人等に白さく、今更に行者のために、一つの譬喩を説きて信心を守護して、もって外邪異見の難を防がん。(注1)

観経疏に於ける文の配列をそのまま見るならば、この二河譬は、廻向発願心のための譬喩でなければならない。しかし親鸞は、この「守護信心」の語に注目し、『高僧和讃』には

善導大師証をこい
定散二心をひるがえし
貧頗二河の譬喩をとき
弘願の信心守護せしむ(注2)

と歌った。親鸞においては、この譬喩は信心の譬喩であったのである。
  信巻を繰っていくならば、やがて三一問答にぶつかる。

問う。如来の本願、すでに至心・信楽・欲生の誓いを発したまえり。何をもってのゆえに論主「一心」と言うや。答う。愚鈍の衆生、解了易からしめんがために、弥陀如来、三心を発したまうといえども、涅槃の真因はただ信心をもつせてす。このゆえに論主、三を合して一と為るか。(注3)

ここで親鸞ははっきりと「涅槃の真因はただ信心をもってす」ゆえんと喝破した。親鸞浄土真宗の信心為本と呼ばれる所以である。
しかしなぜ、親鸞はこれほどまでに信心を重視したのであろうか。そこに私は、業の中にある私たちにとっての、涅槃への具体的な道筋を明らかにしょうとした親鸞の宗教精神の根本を見るのである。すなわち、至誠心は究極の覚醒を語って余すところないが、私たちとの接点が明らかでない。廻向発願心は、如来から廻向された真実心を既に語っているが、いかにしてその「こころ」が発したのか、その一点を明らかにするには、実に信心の具体的内実を明らかにするしかないのである。
  そして今、その信心の具体的な在り様を最も生々しく物語っているものこそ、実はこの二河譬なのではあるまいか。

この河、南北辺畔を見ず、中間に一つの白道を見る、きわめてこれ狭小なり。二つの岸、あい去ること近しといえども、何に由ってか行くべき。今日定んで死せんこと疑わず。
正しく到り回らんと欲すれば、群賊悪獣漸漸に来り逼む。
正しく南北に選り走らんと欲すれば、悪獣毒虫競い来りて我に向かう。
正しく西に向かいて道を尋ねて去かんと欲すれば、また恐らくはこの水火の二河に堕せんことを。(注4)

また自らの瞑想体験で恐縮だが、ある日の瞑想中、私は、私のせいで自殺したのではないかと思える或る女性のことを思いだしていた。地獄のような責苦がやってきた。もしかしたらこの苦しみは永遠に続くのではないか、という恐怖が私を襲った。
しかし、何とかして救われたい。と、私はふと、私の陥っていた地獄にいくつかのささやかな花が咲いていることに気がついたのである。「ああ、花が咲いていてくれた、もうこれで充分だ。」私の目からひとりでに涙がこぼれ落ちていた。たとえここが地獄の真中でも、こうしていくつかの花が咲いてさえいてくれるならば、ずっとここにいることもできる……とむせび泣いた。と、なぜ、ここに花が咲いているのかが、わかってきた。
それは私自身が忘れていたような理由によってであった。私は忘れていたのだが、私も時に、本当にコよかれ」と思って人にやさしくしたり、つくしたりしたことがあったのだ。その分だけ、ここに花が咲いていたのだ。
ひどだが次の瞬間には、再びもっと酷い地獄が現われた。私が「自分の功徳で花が咲いていたんだ」と考え、花を自分のものにしようとした刹那、花は牙をむいて私に噛みついたのである。
瞑想から覚めた私は、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を思い起こした。たった一度だけ蜘蛛を助けた功徳で、地獄に垂れてきた糸を上っていた腱陀多は、後から上ってくる者達に「下りろ。下りろ。」と喚いたとたん、糸が切れて、再び地獄へ転落してしまう。単純な寓話だと思っていたが、一刹那の内にも傾倒する我々の本性、業の深さを、恐ろしいまでに描いた作品だったりのりのだと思い直した。それはまさしく、一刹那の内にもなのであって、我々の意志とか善心とかいうものによって、まにあうようなものではない。
  考えてみれば、私が時に誰かにやさしくしたのは、けっして自らの計らいではなかったのであった。何故かはわからぬけれども、如来の心が私の中に廻向されて来て、そういう働きをしたのである。私のしたことと言えば、それを「私の心」だと執着して染汚することだけであった。そして二度と再び、私は業の中にある自分の力で、業を超えた無心の行為に帰ることなどできなかったのである。
  こうして私が直面せざるをえなかったのは、自分の力で何とかしょうというどんな試みによっても地獄を抜けだすことなどできないのだ、という事実の動かし難さであった。だからといってまた、全ての試みをやめてしまおうとすることによっても地獄を抜け出すことなどできないのであった。しかも地獄は、寸分の狂いもなく、まさしく私の業そのものとして現れてきており、どんな言い訳も無用であった。しかし、それでも救われたい。

すなわち自ら思念すらく、「我今回らばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、我寧くこの道を尋ねて前に向こうて去かん。すでにこの道あり。必ず度すなべし」と。この念を作す時、東の岸にたちまちに人の勧むきみたずる声を聞く。「仁君ただ決定してこの道を尋ねていけ、必とどず死の難なけん。もし住まらばすなわち死せん」と。また西の岸の上に人ありて喚うて言わく、「汝一心に正念して直ちに来れ、我よく汝を護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ」と。

これが「念仏もうさんとおもいたつこころ」の風光である。始まりのない過去から、生まれては死に、死んでは生まれながら、それでも生命の根っ子にしがみついて流転しつづげる己の姿がまざまざと見え、今またそんな自分の力で迷いを抜けようとする限り、けっしてどんな救いもないこともまたまざまざと見える時。その見ている自分を結束点として、実は、業の中にある自己と業を超えた如来のこころとが不可思議にも接している。
その幽かな接触点の故に、わずか四五寸の白道が業の彼方に続いているのが見える。見えるかと思うと消える。しかしまたそこには、釈迦弥陀二尊の発遣招喚の声が聞こえる。この時、人は、深い業の中にあるからこそ、すべての業を超えたこころの呼びかけにひたすら信順し、自らの力で何とかしょうという試みの全てを解き放って「念仏もうす」のである。

彌陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念佛まうさんとおもひたつこ」ろのをこるとき、すなはち撮取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

そしてまさしくその瞬間、私たちは掻取不捨の利益に迎えいれられるのである。すなわち生と死を超えて、全ての光り輝くいのちに連なるのである。そしてそのひとつらなりのいのちの中で、自らの為すべきことを、生き生きと為し始めるに違いない。

(注1)『真宗聖典』 二一九頁
(注2)『真宗聖典』 四九五頁
(注3)『真宗聖典』 二二三頁
(注4)『真宗聖典』 二一九頁

おわりに

 根源的な自己覚醒の道は、世界各地に様々な形で見られる。
根本的には、私たちは、ただ無条件に、存在"宇宙を信頼し、今ここに醒めて在ればそれで充分なのであろうが、実際には何か、具体的な道を必要としている。

縁に随いて行を起こして、おのおの解脱を求めよ。(注1)

という。道は数多くあるが、縁ある道を一心に歩みつくすことが肝要であろう。本論では私は「自分の力ではどうすることもできないのだ」という視点を強調したが、そうであるからこそ、縁ある道を一心に歩みつくすことが肝要なのだと思う。
  そしてどの道を歩んでいるにせよ、その最も内奥の一点に於いて、「念仏もうさんとおもいたつこころ」が(あるいはそれと同じ内実をもつこころが)念々刻々必要とされているといわねばならない。自我をありのままに見ることによる、自我の死……そこにひとつの覚醒と、ひとつらなりの光り輝くいのちの総体が生きはじめる、ということが。

(注1)『真宗聖典』 二一八頁

主要資料文献・参考文献

  • 定本『親鸞聖人全集』第一巻 法蔵館
  • 『真宗聖典』東本願寺出版部
  • 『歎異抄』金子大栄校訂岩波文庫
  • 山辺習学・赤沼智善著『数行信証講義』信証の巻 法蔵館
  • 日本思想体系『法然・=遍』岩波書店
  • 竹中信常著『選択集に聞く』教育新潮社

その他の引用文献

  • 芥川龍之介著『蜘蛛の糸・杜子春』新潮文庫
  • 『旧新約聖書』日本聖書協会
  • 三浦綾子著『新約聖書入門』光文社
  • バグワン・シュリ・ラジニーシ講話『あなたが死ぬまでは』マ・アナンド・ナルタン訳ふみくら書房
  • 谷口隆之助・津田淳編著『生きることの探究−−西欧思想史におけるその展開』川島書店
  • 谷口隆之助著『聖書の人生論〜いのちの存在感覚〜』川島書店
  • バグワン・シュリ・ラジニーシ対話『生命の歓喜』スワミ・プレム・プラブッダ訳ラジニーシ・パブリケーション・ジャパン
  • バグワン・シュリ・ラジニーシ講話『存在の詩』スワミ・プレム・プラブッダ訳めるくまーる社
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